
こんにちわ、クセノツヨイ映像制作会社「トビガスマル」代表の廣瀬です。
ここ数年、「ディープフェイク動画」という言葉を耳にする機会が増えました。
誰かの顔を別人に置き換えたり、存在しない映像を“本物のように”見せたり。
まるでSF映画の世界が現実になったかのようです。
しかしこの技術、ただの脅威ではありません。
それは、映像が持つ「表現の自由」と「倫理の境界」を、
私たちに問い直させる鏡のような存在でもあるのです。
私は映像制作者として、この現象を“怖い”と同時に“美しい”とも感じています。
それは、人が“信じたいリアル”をどこまで作り出せるかという挑戦でもあるからです。
この記事では、ディープフェイク動画に潜む希望と課題、
そして「本物とは何か」という根源的な問いを、少し真面目に語ってみたいと思います。
目次
ディープフェイク動画とは?|“本物”の境界が消える時代
こんにちわ、クセノツヨイ映像制作会社「トビガスマル」代表の廣瀬です。
映像を仕事にしていると、時々ゾッとするような瞬間に出会います。
最近ではそれが「ディープフェイク動画」でした。
AIが人間の顔や声を学習し、まるで本人が話しているように動かしてしまう——。
一度見ただけでは、本物かどうか見分けがつかない。
初めて見たとき、正直なところ「すごい」と思いました。
光の当たり方、まばたき、表情の動き。
私たちが何時間もかけて演出してきた“リアル”を、AIは数秒で再現してしまう。
映像制作の現場で積み上げてきた“職人の感覚”が、
一瞬で覆された気がしました。
けれど、同時に思ったんです。
「これは、もしかしたら新しい“表現の自由”の扉が開いたのかもしれない」と。
ディープフェイクは“偽物を作る”技術であると同時に、
“存在しないリアルを想像する”ためのツールでもある。
この視点に立てるかどうかで、映像の未来は大きく変わると思っています。
AIがつくる「リアルすぎる嘘」
ディープフェイクとは、ディープラーニング(深層学習)を利用して、
人の顔や声、動作をAIが再現・合成する技術です。
ニュースで取り上げられることも多く、
「偽動画」「フェイクニュース」「詐欺に使われる危険な技術」として語られることがほとんど。
たしかに、悪用されれば社会的信頼を壊すほどの影響力を持ちます。
“本物らしさ”が限りなく高い分、
人は「信じたいリアル」を簡単に信じてしまうのです。
でも私は、こうも思います。
「リアルすぎる嘘」こそ、
人間の“感情の領域”に最も近づいた映像なのではないか、と。
なぜなら、人が映像に心を動かされるのは、
そこに“真実っぽさ”があるから。
つまり、ディープフェイクの本質は、技術の問題ではなく、
“リアルとは何か”という問いそのものなのです。
ディープフェイクは悪だけではない
AIが人間を模倣することは、確かに恐ろしい。
しかし一方で、それは“人の記憶を再構築する”力も持っています。
たとえば、故人の姿をAIで再現して
家族が最後にもう一度会話をする——
そんなプロジェクトも世界では始まっています。
それを「不気味」と捉える人もいれば、
「救われた」と涙を流す人もいる。
ディープフェイク技術は、映像表現を“再現”から“再生”へと変えました。
過去を映すのではなく、過去をもう一度“生き返らせる”技術。
それが善か悪かは、誰が、何のために使うか次第です。
私は映像制作者として、
この技術を“禁じ手”として遠ざけるのではなく、
“可能性”として見つめたい。
そこにあるのは恐怖ではなく、
「想いを再現する力」だからです。
映像制作者として感じる“希望”
ディープフェイクと聞くと、多くの人は「怖い」「危険」「嘘っぽい」と感じるでしょう。
でも、映像をつくる立場から見ると、それは少し違って見えます。
私にとってこの技術は、“脅威”であると同時に、
「もう一度、映像を信じたくなるきっかけ」でもありました。
なぜなら、ディープフェイクは映像表現の限界を壊し、
「人間が見たいと思う世界」を、より自由に描けるようにしてくれたからです。
誰もが表現できる時代の到来
かつて映像制作は、専門知識と高価な機材がなければ成り立たない世界でした。
編集も撮影も、限られた人たちの“領域”だったのです。
ところがAIが登場してからは、
顔を変える、声を変える、背景を合成する——そんなことが誰でもできるようになりました。
“フェイク”という言葉の裏には、「自由」というもう一つの顔があります。
誰もが映像を使って表現できる。
これは、かつての映像業界が夢見ていた未来でもあります。
「職人の技術」が「社会の文化」として広がる。
ディープフェイクはその入口を、静かに開けてくれたのかもしれません。
失われた人を“もう一度動かす”技術の力
少し個人的な話をすると、私は映像を通して“記録”よりも“記憶”を残したいと考えています。
記録はデータとして残るけれど、記憶は“心”として残る。
ディープフェイクは、その境界をぼかしてくれる技術です。
世界では、亡くなった家族や著名人の姿をAIで再現し、
「もし今、生きていたらこう語るだろう」という映像を制作する試みが始まっています。
倫理的な議論は尽きませんが、そこには確かに、“想いをつなぐ希望”があります。
現実にはもういない人が、もう一度笑う。
その映像を見て涙を流す人がいる。
それはフェイクではなく、“心の真実”かもしれません。
私はこの技術に、そんな“優しい嘘”の可能性を見ています。
創造の自由が広がることへの喜び
AIが映像を作るようになって、「もう人間はいらない」と言う人もいます。
けれど、私はむしろ逆だと思っています。
AIが作り出した“完璧な嘘”があるからこそ、
人間が作る“不完全な真実”が、より輝くようになった。
人の手でしか描けない“揺らぎ”や“意図しない間”こそが、
映像の温度を決めるのだと再認識させてくれる。
それは、まるでAIが私たちに「本当の人間らしさとは何か」を問いかけているようです。
ディープフェイクの技術を通じて、
私は映像という表現にもう一度、恋をした気がします。
それは恐怖ではなく、希望です。
映像がこれからどう変わっていくのかを、心から楽しみにしています。
そして、避けられない“課題”
ディープフェイク動画には、希望と同じくらい深い課題があります。
それは「どこまでが真実で、どこからが虚構なのか」という、人間の根本的な問いに触れる問題です。
私たちはこれまで、映像を「記録」として信じてきました。
カメラが見たものは現実であり、そこに映る姿は“事実”だと。
しかし、AIが作り出すディープフェイクはその常識を静かに壊していきます。
映像が“事実の証拠”でなくなった時、
私たちは何を信じて生きていけばいいのでしょうか。
それが、ディープフェイクがもたらす最大の課題です。
フェイクがもたらす信頼の崩壊
AIによる偽動画の拡散は、すでに世界中で問題になっています。
政治家の演説、著名人のスキャンダル、企業の内部告発——。
どれも一瞬で「本物の映像」として広がり、人々の感情を揺さぶる。
フェイクであると分かった時には、もう遅いのです。
映像が信頼を失うということは、社会そのものが信頼を失うということ。
私たちは、真実を疑う癖を身につけ始めています。
「映像がある=事実」ではなく、「映像があっても嘘かもしれない」。
この感覚が日常に染み込んでいくほど、
社会の“共通認識”が崩れていくのを感じます。
それでも、映像制作者として私は信じたい。
真実を伝えることができるのは、技術ではなく、
それを扱う人間の誠実さなのだと。
“真実”と“演出”のあいだにある倫理
映像制作には昔から、“演出”という魔法がありました。
ドキュメンタリーでも、照明や音、カットのつなぎ方ひとつで印象が変わります。
観る人の感情を動かすために、
制作者は“意図的な演出”を行う。
それは長い間、許されてきた「表現の範囲」でした。
しかしディープフェイクは、その“演出”の範囲を越えてしまいます。
AIが生成した顔の動き、声、感情。
それが「現実」として受け取られる時、
観る人の“信頼”をどこまで背負うべきなのか。
この問題には、まだ明確な答えはありません。
でも少なくとも、映像を作る人間が自らの“意図”を自覚すること。
それが、これからの映像制作に求められる新しい倫理だと思います。
映像業界が今、考えるべきこと
ディープフェイク技術は、もう止められません。
むしろ今後は、映画、CM、教育、医療といった
あらゆる分野に広がっていくでしょう。
だからこそ、業界全体で「どのように使うか」を考えなければいけません。
法的な規制やガイドラインだけではなく、
制作者の“モラル”や“哲学”が求められる時代です。
トビガスマルとしても、
この技術を使う・使わないという二択ではなく、
「どう使えば人を幸せにできるか」という視点を持ちたいと思っています。
AIが作る映像の中に、人間の“心”をどれだけ残せるか。
そこにこそ、これからの映像制作の価値があるのではないでしょうか。
技術と人間の関係:AIに魂を与えるのは誰か
AIが映像を生み出すようになって、
私たちはしばしば「人間の仕事が奪われる」と言います。
でも本当にそうでしょうか?
私はむしろ、AIが生み出す“完璧な映像”を前にして、
人間の不完全さの価値を再発見している気がします。
AIは美しい映像を作れる。
でも、「伝わる映像」を作れるのは、やはり人間だけです。
なぜなら、AIには「魂」がないからです。
AIは“模倣”するが、“祈り”はできない
ディープフェイク動画は、表情も声も完璧に再現します。
けれど、その裏にある「想い」までは再現できません。
AIは模倣が得意でも、祈りを込めることはできないのです。
映像制作の現場で感じることがあります。
照明を1cm動かす。カットを1秒削る。
その小さな判断の裏には、
「観る人の心にどう届くか」という、祈るような感覚がある。
それはデータやロジックではなく、
“人間だけが持つノイズ”のようなもの。
AIにはそれがない。
でも、その「ないこと」を知っている人間がAIを使えば、
きっと映像には魂が宿ると思うんです。
AIを“共犯者”にできるか
私はAIを“敵”とは思っていません。
むしろ「共犯者」だと思っています。
AIの計算力と、人間の感情。
この二つが混ざり合うとき、映像はこれまでにない深みを持ちます。
たとえば、AIが作ったフェイクの顔に、
人間がリアルな音声やナレーションを重ねる。
または、人が描いたストーリーに、AIが光と動きを与える。
それはもはや「人間対AI」ではなく、
「人間とAIの合作」なのです。
AIを使って人間の感情を表現する。
その逆説的な構図の中に、
私は新しい映像表現の未来を感じています。
“テクノロジーの中の人間”を描く
AIがつくる映像が増えるほど、
人間がつくる映像の意味も変わっていくでしょう。
これからの映像は、
「技術を使って人間を描く」時代から、
「技術の中に人間を描く」時代へと移り変わっていきます。
私はその変化を、恐れる必要はないと思っています。
むしろ歓迎したい。
なぜなら、テクノロジーの中に人間を描くということは、
「人間とは何か」をもう一度見つめ直すことだからです。
映像制作の未来は、
カメラや編集ソフトの進化ではなく、
“人が人をどう信じるか”にかかっています。
AIに魂を与えるのは、私たち人間なのです。
まとめ:ディープフェイクが映す“人間の本音”
ディープフェイク動画は、技術的な革命であると同時に、
人間の「本音」を映し出す鏡だと思います。
私たちは「本物」を信じたい。
でも、同時に「都合のいい真実」も求めてしまう。
AIが生み出す映像が流行るのは、
人間がもともと“嘘を愛せる生き物”だからかもしれません。
フェイクであっても感動できる。
作り物でも、涙が出る。
その矛盾の中に、私は人間らしさの本質を感じます。
映像とは、信じたい世界を形にすること
映像は、常に「真実」だけを映してきたわけではありません。
映画もCMもミュージックビデオも、
その多くは“美しい嘘”でできています。
それでも人が映像に心を動かされるのは、
そこに「信じたい世界」があるからです。
ディープフェイクもまた、その延長線上にあるのだと思います。
嘘と真実の境界線は、きっとこれからますます曖昧になるでしょう。
でも、それでいい。
大切なのは、「どんな嘘を信じたいか」を選ぶことなのです。
映像制作者としての覚悟
トビガスマルのような映像制作会社にとって、
AIやディープフェイクは“敵”ではありません。
むしろ、映像表現を進化させるための新しい筆です。
私たちは技術そのものではなく、
その先にある“感情”を扱う仕事をしています。
たとえAIが生成した映像であっても、
そこに「誰かの想い」が宿るなら、それはもう“本物”です。
これからもトビガスマルは、
フェイクとリアルのあいだで、
人の心を動かす映像を追い求めていきます。
恐れずに、遊び心を忘れずに。
それが私たちのやり方です。
最後に:フェイクの中にある“希望”
技術がどれだけ進化しても、
人間の感情はデータ化できません。
それが、AI時代に生きる私たちの最後の希望です。
ディープフェイクが描く未来が、
偽りの映像に満ちた世界になるのか、
それとも“真実を伝える新しい方法”になるのか——
それを決めるのは、AIではなく、
私たち人間の想像力です。
そしてその想像力こそ、
映像が何よりも信じてきた“リアル”そのものなのです。
▶︎ トビガスマルでは、AI・映像技術を活用した映像表現やプロモーションのご相談を承っています。
フェイクの中にある真実を信じたい。
それが、今の時代を映す私たちのリアルです。
――クセノツヨイ未来を、共に描きましょう。

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